Barcode
 Navigation_H (Japanese)


 Navigation_V (Japanese)

HTML5 compliant



 Barcode_V

Attention
Different browsers interpret web page languages (HTML/
PHP/Javascript/CSS) differently at default.

I tuned up this site best for Google Chrome, a most popular browser running on desktops/tablets/
notebooks/mobile phones.

Other browsers (Firefox/Edge/IE/
Opera///) might exhibit weird appearance that I do not aim at.

高校まで

私は小口定一郎と久子の次男として神奈川県逗子市に生まれました。通常、私達日本人はその名前に、ある種の意味付けをしています。「小口」は読んで字の如く、「小さな口」を意味します。従って、私は「大風呂敷を拡げて、大口をたたく輩」などでは決してありません。

私の父は一橋大学(当時、東京商科大学)商学部卒業後、第二次世界大戦中は日本帝国海軍の士官でした。短期現役の主計学校卒業士官として、中曽根康弘元首相の2年先輩にあたります。戦争終結時には、主計少佐でした。兄の小口浩一は早稲田大学法学部在学中、国家公務員上級職甲種(現在はI種)の試験に合格し、卒業後、文部省(現在は、文部科学省)のいわゆるキャリア事務官となっています。

小口家は長野県の諏訪湖の畔にある岡谷市で蚕の繭から絹を造る製糸業を営む三大製糸のうちの一つを創業しました。絹織物は諸外国へ盛んに輸出され外貨を獲得し、おおいに日本経済に貢献したのです。しかし、絹織物工業はナイロン、レーヨン、ビニロンなどの石油から造られる合成繊維の出現により急激に衰退してしまいました。ずいぶん前から東京都世田谷区に居を構えていますが、まだ、岡谷には広い敷地に大きな邸宅が残っています。

父は石炭を供給する基幹産業の一つ、三菱鉱業(現在は、三菱マテリアル)で商務畑の人間として働いていました。この会社は主要な工業地帯や石炭産出地の近くに五つの地方支店を配していました。日本には四大工業地帯と呼ばれる地域があります。関東(東京・横浜・千葉)、中部(名古屋・四日市)、阪神(大阪・神戸)と北九州(八幡・小倉)です。私は中学生になるまで、これらの支店を渡り歩く父と共に引越しをせねばなりませんでした。この結果、私は数多くの町で暮らしたことになります。神奈川県逗子市、福岡県北九州市、愛知県名古屋市、兵庫県芦屋市、最後に東京都世田谷区です。

私は色んな場所でそれぞれの方言で喋る様々な種類の友人を持ったことになります。従って、私は標準的な日本語を喋っているといってもいいでしょう。私は多様性の塊りUpdated on
9/18/23
でもあります。

しばしば引越しをしたおかげで、ほんの僅かの人たちしか経験したことがないのではないかと思われる事を私は経験しているのでご紹介しましょう。

まず第一に、私が小学校六年生の時、二度も修学旅行に招待されたことがあります。勿論、二年間にわたって小学校六年生を続けていたわけではありません。まず、私が名古屋にいた時、夏休み前に日本の中央あたりに位置する伝統的な古都である京都と奈良に修学旅行で行きました。皆さんご承知の通り、日本では学校は四月に始まり次の年の三月に終わります。私達は夏休みに芦屋市に引っ越しました。芦屋で私が通った小学校はその年の秋に修学旅行として私を三重県の伊勢・志摩へ連れて行ってくれたのです。一年に二度も修学旅行を楽しめて、非常に幸運でした。

第二の特殊な経験として挙げられるのは、中学一年生の時、三つの異なる中学校に通ったことがあることです。夏休みの前、四月から七月までは、芦屋の中学にいました。八月に東京に引越し、九月から十二月まで東京の中学に通いました。一月からは、新らしく建てられた中学にいくことになったのです。私たちは第二次世界大戦後のベービー・ブームの時に生まれたからです。


大学の選択

私は東京都立青山高校を卒業し、東京都立大学工学部電気工学科に入学しました。

私が東京都立大学を選択した理由は、他の人間とは異なり、単純でした。一般的に、評判の良い大学を卒業し大企業で働くことを最終目的と捉え、高校三年の二月か三月に実施される大学入学試験に落ちても、あと一年か二年入試勉強をすることが当たり前でした。当時は、安定を求めること(寄らば大樹の陰、大きなものに巻かれろ)であって、挑戦してみようなどと考えることなどはあり得ませんでした。さらに、多くの学生にとって、学科を選択する事などは二の次でした。社会からの評価が高い大学を目指し、卒業することが一番重要だったのです。いったん、大学に入ってしまえば、たとえ一生懸命勉強しなくとも大学の人員収容力には限界がある為、大学は不勉強な成績の悪い学生であっても卒業させます。日本の大学で「可」を取ることは米国の大学で「C」を取る事よりもっと簡単なのです。

米国と日本における学業成績評価法には大差はないでしょう。「A」が「優」とか「5」、「B」が「良」とか「4」、「C」とか「D」が「可」または「3」か「2」、「E」が「不可」とか「1」に相当します。米国と大いに異なることは、日本では入学は難しいが卒業はいとも簡単なことです。この大学生選別方法の違いが日本文化をさらに保守的なものにしたようです。

Grade Description Point Grade Description Point
A + Exceptionally High Achievement 4.3 AU Audit NA
  4.0 CR Credit Awarded for AP or CLEP NA
- 3.7 F Failing in Pass/Fail Course NA
B + High Achievement 3.3 I Incomplete NA
  3.0 IP Satisfactory Work in Progress NA
- 2.7 P Passing in Pass/Fail Course NA
C + Average Achievement 2.3 S Satisfactory NA
  2.0 U Unsatisfactory NA
- 1.7 W Withdrawn NA
D + Minimum Passing Grade 1.3 *** No Grade Submitted NA
  1.0
- 0.7 GPA system in US
E   Failing 0.0

私の場合はかなり特殊でした。高校の生徒だった頃、私は趣味のアマチュア無線に没頭していました。その関係から、履修学科は電気工学以外には考えられませんでした。さらに、現役で大学に合格し出来るだけ早くアマチュア無線を再開することが最優先であって、評判の良い大学の入試に合格する為に一年浪人しようなどという考えは全然ありませんでした。私には時間的な制約があったのです。一年間、浪人することなど他人がやることで、私は現役で合格する必要性を感じていました。

日本の大学のなかで最も社会的な評価の高い東京大学は、電気工学や物理などの履修学科ではなく工学や理学などの学部別に学生を募集していました。履修学科は学生の希望と入学一年後の成績に基づいて決められます。電気工学科は優秀な学生が集まる人気学科ですので、その成績は入学後も抜群でなければなりません。

次の選択肢となるべき東京工業大学も同じ募集方法を採っていましたが、東京都立大学を含め、他の全ての大学では履修学科別に学生を募集していたのです。数度にわたる模擬試験の結果では、私は東京工業大学と東京都立大学への十分に高い合格確率を得ていました。これらの大学の入試は国立一期校として同じ日に実施されていた為、どれか一つだけに絞らなければなりません。これらを考え合わせ、最終的に東京都立大学を受験し、現役で合格しました。その年間授業料は当時一万二千円で、東京都の教育システムのもとにある都立高校の授業料よりも安かったように記憶しています。国公立大学の授業料は私立大学の授業料と比較にならぬくらい非常に安かったのです。このように学生にとって好ましい財政状況から、次の一年間、私は趣味に没頭することができました。


大学生活

私にとって幸運だったのか、彼らにとって不運だったのかは判りませんが、なにしろ私だけが大学に合格し、高校の親友たちは全員が高望みをしたためでしょうか不合格となり予備校で一年間浪人生活をする羽目となりました。わざわざ考えることでもありませんが、私は彼らと大学卒業年次を合わせる羽目になりました。即ち、彼らが一年間大学入試で猛勉強している間に、私は趣味をとことん追究できるということです。大学入試終了直後、その結果を見ることもせず、アマチュア無線を即座に開始したのでした。

第二級アマチュア無線技士の国家試験合格後、さらに、最難関の第一級アマチュア無線技士の免許も取得しました。親から与えられる小遣いやアルバイトからの収入を元手に、受信機、送信機、アンテナ、測定器を一つ一つ手作りしました。当時、私はケチではなく、金遣いが上手だったのでしょう。中元や歳暮の時期には高島屋デパートで自転車で配達作業、女子高校生への添削指導、国家試験の試験官などをし、趣味のための資金稼ぎをしました。

私は日本アマチュア無線連盟(JARL)の会員になりました。米国にもARRL(American Radio Relay League)と呼ばれる同じような組織があります。アマチュア無線局免許も取得し「JA1VJY」というコールサインを貰い、東京に無線局を開局しました。私のアマチュア無線局から発信される電波は世界中に届きました。交信をするとQSLカードと呼ぶ交信証を相手局と交換し合います。私は、六大陸の四十八の国と交信し、賞ももらったことがあります。趣味のページもあわせてご覧ください。

同世代の人たちと同様、私も自動車の運転免許を取得しました。日本では、自動車学校に入校することが免許を取る第一歩です。交通法規や自動車の構造をそれぞれ十時間、教室で学びます。教室での学習と同時に、自動車学校敷地内にある運転練習場で最短十時間の運転実習を受けます。その後、一般道路での運転実習を受けるため仮免許試験を受け、合格しなければなりません。当時は、最短十時間の一般道路運転実習が課せられました。運転免許試験場での運転実技試験のかわりに自動車学校での卒業運転試験に合格して、ようやく自動車学校を卒業できます。自動車学校卒業の為に、最低でも三十万円ほども支払わなくてはなりません。米国のカリフォルニア州では、二万五千円ほどで済みます。日本の常識は世界の非常識ですね。

自動車学校を卒業し、運転免許試験場でのペーパーテストに合格して、晴れて運転免許証を交付してもらえます。運転免許試験場の場所的な制約や処理能力の点から混雑が予想されるので、運転実技試験は免除されます。

私はある意味では常軌を逸した方法を模索する習性があるようです。
私も普通の人たちがするように、まず自動車学校に入校しました。ところが、運転教習時にやり直し宣告を受け、追加費用を支払い同じ教習を再度受けなければならなくなることが二度ほどあり、その度に、私は運転免許試験場に足を運び、直接ペーパーテストと運転実技試験を受けたのです。この方法は、ほんの一握りの経験が不足しているか怖さを知らぬ人々が挑戦する免許取得のもう一つの近道でした。私にとってペーパーテストに合格点を取ることはたやすい事でしたが、次の段階である運転実技試験に合格することは至難の業でした。米国では、自分たちの慣れている車を試験場に持ち込み、実技試験を受けることができます。ところが日本では、試験場が用意しクラッチ操作を必要とするマニュアル・シフトの車を運転せねばなりません。さらに、いやらしい仕掛けがクラッチやブレーキ・ペダルに施されているのです。その試験は質(「たち(性格)」ではありません)の悪い運転者を除外するだけではなく、初心者ドライバーには免許を与えようとはしない目論見があるのです。運転技能に卓越した経験豊富なドライバーを選別することは出来ても、免許を与えることを目的とする一般的な運転実技試験としてはいささか不適切なものでした。

運転免許試験場での運転実技試験は何度受けても、途中で試験の中止を言い渡されてしまったことは明白です。その度に、自動車学校に戻っては、実技教習を再び始めることになります。都合二度も自動車学校に行かず遠回りをし卒業に六ヶ月を費やしましたが、ようやく運転免許を取得できました。

運転免許は取ったものの、車を買うだけのお金を持ち合わせていたわけではありません。車は車でも、私にとっては自転車が色々な場所に行くのに、一番経済的な交通手段でした。五百万円ではなく五万円で内装ギアのついた軽量ステンレス・スティール製の自転車を買いました。神奈川県の逗子は私が生まれた場所でもあると同時に、祖父母が住んでいた町でもあります。十一世紀から十二世紀にかけ鎌倉幕府があった歴史の町、鎌倉の隣にあります。鎌倉には沢山の寺があります。それらの町へは、いつも自転車に乗って行きました。片道五十キロ・メートルで三、四時間程度かかります。秋葉原も中古電子部品購入の為、よく自転車で行きました。様々な所にある映画館に自転車で通っては、外国映画であれ日本映画であれ、色々な映画を見たものです。

余りにも熱中しすぎ気違いになってしまうのではないかと思うようになり、アマチュア無線をやめることにしました。究極までその趣味を追求し、自ら止めをさしたようなものです。今まで作り上げてきた色々な物をゆっくりと分解していきました。

その後は、オーディオ・リスニングを楽しむようになりました。雑音に埋もれた弱い電波を探し出して交信するアマチュア無線に較べれば比較にならぬほど優雅で心地良いものでした。ここでもまた、プリアンプとメインアンプのついたFMステレオ・レシーバーや低音域用大口径ウーファーと中音域用スピーカーと高音域用ツィーターを組み込んだ2つのスピーカー・ボックスを手作りました。さらに、七インチのオープン・リール・テープを装着できる音声テープ・レコーダーに消去・録音・再生の三ヘッドを取り付けたり、その発振周波数(磁化ヒステリシス特性)を調整したりして改造に取り組みました。これらにタイマーを仕組み、FMラジオ局が放送するステレオ音楽を録音し収集した音楽はかなり多く残っています。バイオリンのクラシック音楽よりポール・モーリアのフレンチ・ポップスのようなイージー・リスニング系や日本の流行歌が好きでした。

日本の高校や大学における科目学習のレベルは米国に比べはるかに高く、難しいことを要求していると同時に、授業時間も長いようです。私のように工学部の学生の場合、実験や実習では年間週三時間を費やしても一単位しか貰えず、月曜日から金曜日まで朝八時半から夕方五時半まで教室で勉強せねばなりません。

秋葉原で見つけ出した中古電子部品を用いて卓上計算機を作ろうと思いましたが、その大きさがたたみ一畳ほどになることが解り中止せねばなりませんでした。その当時は、まだ、後にNEC(日本電気)で電卓用のLSI(大規模集積回路)を実際に設計することになるとは思いもよりませんでした。

日本の大学生の就職活動は、通常、四年生の四月から始まりました(青田買い)。就職先は夏休み前までに決定するのが普通です。実際に働き始めるのは翌年の三月に卒業した直後の四月からです。

ところが、就職活動に対するカウンセリングが大学によって催される日の直前、私は交通事故に遭い、入院してしまいました。夕方五時半にクラスが終了した後、自転車で帰宅途中、一台のトラックが追い越しざま、急に左折した為、直進していた私の自転車の行く手を塞ぐ形となり、まず助手席側のドアに衝突した後、荷台の角を私の右肩にぶつけ、跳ね飛ばしたのです。衝突の寸前、車の下敷きにならないように、咄嗟に私の方から体当たりをしていったことを覚えています。その衝撃のため、暫くの間、意識不明の状態となってしまいました。意識不明とは血圧が下がり、脳に血液が行かなくなるために起こります。意識が戻った時、血液が頭にグーッと上っていく感覚がありました。その時、救急車はもう到着しており、救急車に乗せられ近くの救急病院に担ぎ込まれました。後日、手術を受けるため別の病院(後に、勤務場所となる日本電気玉川事業場の傍、東急東横線武蔵小杉駅前にある東横病院)に移りましたが、全治三ヶ月の肩甲骨の複雑骨折で、切開手術後、四十二針も縫っています。NECのある友人は更衣室でこの傷跡を見て、「男の紋章」だと評したこともあります。

入院中、母方の祖母が見舞いに来た際、「災いを転じて福となす」という色紙を置いていきました。そのような交通事故のため就職試験に出遅れましたが、NECにペーパー・テストと面接の延期を依頼、就職試験に合格しました。このように民間企業への就職活動は夏休み前までに終了します。兄は国家公務員試験に合格した文部省の事務官でした。それならと、私も腕だめしのつもりで国家公務員試験を受けることにしたのです。

公務員試験は難しい順に、大学卒・院卒レベルの第I種(上級職)、短大卒レベルの第II種(中級職)、高卒レベルの第III種(初級職)に分かれており、上級職はさらに甲(中央官庁勤務)と乙(地方出先機関勤務)とに分類されます。上級職甲の試験に合格した公務員を「キャリア」と呼んでいます。色々な試験区分がありますが、私は「電子通信」という試験区分を選び、一番難しい上級職甲を受験しました。電気工学関係としては、もう一つ「電気」という試験区分もあります。「電気」は発電・モーターなどを扱う強電(エレクトリック)、「電子通信」は半導体・コンピュータ・通信などを扱う弱電(エレクトロニクス)と定義しても良いでしょう。試験は一次から三次までの三段階に分かれており、毎年七月から八月にかけて実施されます。一次試験は短時間に大量の問題を与え、幅広い知識と頭の回転の速さを試す、ある種の知能検査のようなペーパーテストです。この段階で実質競争率が四倍ほどになるように受験者を選別します。私が受験した年、「電子通信」の倍率は二十九倍でした。ここから、一次試験で一気に四倍に絞るのです。二次試験は試験区分ごとに内容が異なる専門分野と数学・英語・論文の記述式ペーパーテストと面接試験です。答案用紙や計算用紙などへの記入は、鉛筆ではなく万年筆だけを使うことになっています。試験当日は三十七度の猛暑だったため汗だくとなり、インクが滲まないようにハンカチで答案用紙を押さえながら解答したことを覚えています。

面接試験には各官庁から選ばれた四人の面接官が出席します。「あなたの特殊な経験や体験について、話してください」というのが、開始早々発せられた質問でした。前述した、中学一年の時に二回も転校した経験談をしました。私にはピッタリの質問だったので、話し終えたあと安堵感を覚えました。さらに、「どこの民間企業に内定していますか」の問いに対し「日本電気です」と答えると、電波研究所に勤める面接官が「私だったら、日本電気に行きたいですねぇ」と正直な感想を述べたのを覚えています。

結局、東京都立大電気工学科から四人の学生が受験し、私を含め二人が合格しました。もう一人の学生は「電気」の試験区分で四番の好成績を収め、親父さんが特許事務所を開いている関係から特許庁に就職しました。特許庁で十年間、実務に携われば、弁理士試験において何らかの特典が与えられるのだそうです。

国家公務員には学閥が顕在するので敬遠し、日本電気に就職することにしました。日本電気の人事部からの事業部選択アンケートに対し、第一志望を川崎市の玉川事業場にある集積回路事業部としました。四年の後期から始まる卒業研究は必須科目でもなく、長時間費やしても一単位しかもらえないし、助手の小間使いをやらされることを知っていたので履修しませんでした。そのかわり、 集積回路に関する米国マグローヒル社発行の三冊の原書を輸入図書を販売する書店の銀座丸善で購入、専門用語を全部暗記しながら読み下しました。その他、和文の集積回路関係専門書籍や事典も読みました。日本電気入社後、その三冊の原書のうちの一つが著者(ケオンジャン)のサイン入りで玉川事業場の図書室に納められていることを発見すると共に、集積回路事典の日本電気勤務の著者達と近接した場所や同じ部署で働くことになったのです。

<続く>

 Copyright List of Downloadable Files EmbeddedUpdated on
11/19/24

Copyright © 2002-2024  Oguchi R&D  All rights reserved.